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借り物のキスは、なぜ強いのか――ベルリンの壁《兄弟のキス》

10月28日
読了時間: 4分

ベルリンのイースト・サイド・ギャラリーで、あのキスの前に立った。写真では何度も見ていたが、実物は大きい。365×480センチである。キスというより、壁そのものが顔になっている、というのが最初の印象だった。

本人撮影/イースト・サイド・ギャラリーにて
本人撮影/イースト・サイド・ギャラリーにて

ここでまず、問題をそのまま書いておきたい。私がこの作品を良いと思うのは、絵の上手さではない。構思の良さだ。では、構思が良いとは何か。この文章は、その問いへの答えを探すためのものである。


先に、作品について少しだけ書いておく。作品はドミトリー・ヴルーベリによる《神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え》(通称《兄弟のキス》)、1990年にベルリンの壁に描かれ、2009年に作者自身によって描き直された。つまり現在見ているものは、1990年の壁画の再制作である。もとになったのは、1979年、ドイツ民主共和国建国30周年の式典で撮影された報道写真である。そこに写っているのは、ソ連のブレジネフと東ドイツのホーネッカーである。


ここで、「兄弟のキス」とは何かを確認しておきたい。これは恋愛の表現ではない。社会主義国家の指導者同士の挨拶の儀式であり、抱擁も接吻も、あらかじめ決められた動きだった。つまり画面にあるのは、感情の表出ではなく、決められた動きの記録である。そう確認してからでないと、この作品の構思は見えてこない。


構思の良さは、だいたい三つの点から考えられると思う。


第一に、ヴルーベリは新しい場面を発明していない。有名な報道写真をそのまま借りて、壁の大きさまで引き伸ばしただけである。描く力ではなく、選ぶ力、置く力がここでは問題になっている。アニメーションの制作でも、動きを一から発明することと、既にある動きを選び、どこに置くかは、別の判断である。


第二に、場所である。キャンバスではない。人を分けるためにあった壁、その表面に、指導者同士の親密さが描かれている。分断の道具が、接触の画面になる。この矛盾だけでも、絵はほぼ成立している。言い換えれば、同じキスのイメージでも、どこに置かれるかによって、意味が変わる。置く場所そのものが、表現の一部になっているのである。


第三に、タイトルである。画面のキスは「兄弟愛」の象徴だったはずだが、タイトルはそれを《神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え》と言い換える。愛は愛でも、生き延びなければならない愛である。近すぎる関係は、抱擁の形をした支配でもある。一文によって、写真のもともとの意味が裏返る。


ここでもう一度、最初の問いに戻りたい。構思が良いとは何か。上の三点を並べてみると、共通しているのは、作者が何も新しく作っていない、ということである。写真は借り物であり、壁は既にあるものであり、言葉も既にある儀式の言い換えである。にもかかわらず、組み合わせが変わることで、意味が新しくなる。つまりこの作品の強さは、描く技術ではなく、既にあるものをどう選び、どう置き、どう言い換えるかという判断にあるのではないか。


もう一つ、複製の問題がある。この壁画は2009年に一度消され、作者自身によって描き直された。したがって今見ているのは、写真の模写の、さらに模写である。コピーのコピーであるにもかかわらず、人は集まり、写真を撮る。オリジナルとは何なのか、という問いは、アニメーションを作る者にとっても他人事ではない。私たちの仕事も、複製と反復の上に成り立っているからである。


とはいえ、この文章で結論を出すつもりはない。良い構思は技術より先に来る、と言い切ってしまうと、また大きすぎる言い方になる。ただ一つ確かなのは、私がこの壁の前で考えていたのは、描くことではなく置くことだった、ということである。既にあるイメージを、既にある壁の上に置く。その判断が、なぜこれほど強く働くのか。その問いは、まだ答えきれていない。


作品データ


《神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え》(通称《兄弟のキス》)

ドミトリー・ヴルーベリ、1990年(2009年再制作)

ベルリン、イースト・サイド・ギャラリー、365×480cm

1979年の報道写真に基づく。

© rui

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