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David Hockneyの視覚と私たちの日常

  • 執筆者の写真: Rui Zhao
    Rui Zhao
  • 2 日前
  • 読了時間: 7分

更新日:1 日前

 2025年8月、学生さんたちや韓国・蔚山大学校の教員・学生のみなさんと一緒に、デイヴィッド・ホックニー(David Hockney)の“メディアアート”系の展覧会をご覧になったとのこと。まさに今、ホックニーは「絵画の眼」をデジタル空間へ拡張し続けていて、その現在地を体験できる好機でした。(連れて行ってくださった蔚山大学校の先生に感謝です)

 ロンドン発の没入型ショー「Bigger & Closer (not smaller & further away)」はソウルでの開催に続き、2025年は蔚山でも開催中。巨大スクリーンに広がる森林やプール、制作過程の映像と本人の語りが合わさり、“見るって何?”を問う体験になっています。

Photographed at Lightroom Ulsan (photography permitted in this exhibition).
Photographed at Lightroom Ulsan (photography permitted in this exhibition).

 ホックニーの“新しさ”は、単にテクノロジーを使うことにありません。彼は2010年の登場直後からiPadを絵筆のように扱い、指先で光を塗るようにして日々の窓辺や花、風景を描いてきました。いわゆるデジタル・ドローイング(タブレット等で描く絵)を、従来の絵画と同じレベルの観察と構図で成立させた点が画期的です。公式アーカイブにも2010年作のiPad作品が並び、2009年のiPhone素描から一気に表現が開けたことがわかります。

 さらに言えば、こうしたデジタル作品は“余興”ではなく、最新の大規模回顧展でも重要な柱として示されています。たとえばパリのフォンダシオン ルイ・ヴィトンの「David Hockney 25」(2025年)では、iPhone/iPad作品や没入型映像まで含む約400点が並び、油彩や版画と地続きの探究として位置づけられています。


代表モチーフ

 ホックニーは“特別な題材”を探していません。彼が反復して描くのは、日常の場面です。ところが、その日常は色と視点の組み替えによって祝祭に変わる。ここでは、彼の視覚言語を最もよく表す三つのモチーフを手短に読み解きます。

プール:

 ロサンゼルスで確立したプール・シリーズは、建築の水平/垂直と、水面の曲線を対置して、光を“形”として捉え直します。タイルの目地やプールサイドの直線が画面の秩序を作り、水紋は時間のリズム(反復と揺らぎ)を担う。色は高明度のシアン〜ターコイズが基調で、そこにオレンジやピンクが差し色として入ると、補色効果で画面が一段明るく跳ねます。しばしばやや高めの視点を選び遠近を浅く保つことで、現実の奥行きより色面の関係が優先されます。

Photographed at Lightroom Ulsan (photography permitted in this exhibition).
Photographed at Lightroom Ulsan (photography permitted in this exhibition).

ダブルポートレート:

 ダブルポートレート(二人を同じ画面に描く肖像)は、人物A・Bの関係性を、家具や床の線、壁面の色面といった“場の設計”で可視化します。二人の視線が交わるか否か、椅子の角度が開くか閉じるか、床のパースがわずかにずれるかどうか——その微差が心理的距離になります。色は明るいが、構図は非常に厳密。観る私(第三の視線)が介入できるよう、余白(ネガティブ・スペース)が巧みに仕込まれています。

Photographed at Lightroom Ulsan (photography permitted in this exhibition).
Photographed at Lightroom Ulsan (photography permitted in this exhibition).


ヨークシャーの風景

 2000年代以降のヨークシャー作品は、道・生け垣・林といった繰り返しのモチーフを、季節と歩行のスケールで編んだ風景です。大画面や多連作では視点が少しずつ移動し、私たちは目で歩くように画面を辿ることになる。色は写真的再現よりも体感の温度に寄り、冬は鈍い紫灰、春は鮮やかな黄緑、秋は濃い赤褐といった“記憶色”が前に出ます。ときに複数キャンバスの継ぎ目がテンポになり、時間が画面内で伸縮します。

Photographed at Lightroom Ulsan (photography permitted in this exhibition).
Photographed at Lightroom Ulsan (photography permitted in this exhibition).

デジタル・ドローイングについて(Ipad)

 ホックニーにとってデジタルは“別ジャンル”ではなく、観察の速度と幅を広げるための新しい筆でした。ガラス面に指やスタイラスで触れるだけで描線が立ち上がり、起動〜保存の摩擦が小さい。バックライトの発光色は、彼の高明度・高彩度の語法とも相性がよく、屋内外を問わずその場で光を掴むことを可能にしました。

何が変わったか

  1. 速度:観察→決定→修正のループが短い。迷い線が“試行の履歴”として画面の活力になる。

  2. 移動:常にポケット/バッグにある画面は、朝焼けの窓辺、車中、移動先のホテルなど、偶然の光を逃さない。

  3. 拡張性:拡大(ズーム)でエッジの言い方(硬・軟・擦れ)を数ミリ単位で調整し、連作として時間の差分を並置できる。


視覚言語は“従来の絵画”のまま

 デジタルであっても、骨格は色面の関係・視点の組織・余白の呼吸にあります。

  • 色:発光する青や黄緑は、現場での“体感温度”をダイレクトに反映。

  • エッジ:指先のスワイプで生じる“やや柔らかい縁”が、空気と物体の距離を言い換える。

  • 視点:ズームで微視的に整えつつ、画面全体では浅い遠近を保ち、色面の秩序を優先。

展示

 タブレット上の画像は、高精細プリントや連作パネル、さらには没入型映像へと拡張されます。ここで鍵になるのは

  • 小画面の素早い意思決定を残したまま、

  • 大画面で色の整合とエッジの粒度をどう保つか。ホックニーはこの「スケールの跳躍」を、「連続性(同じ場所・異なる時間)」として可視化してきました。


 ホックニーのテクノロジーへの好奇心は、技術のための技術ではなく、見る行為を別の時間スケールで行うための選択でした。iPadは、現場で光を素早く組織し、その“差分”を連作や巨大な空間体験へ翻訳するための、きわめて絵画的な道具なのです。


楽しさと知性の両立

 

 ホックニーの絵は楽しい。明るく澄んだ色が目を掴み、プールや室内、道や木といった身近なモチーフが軽やかに踊る。

 しかし、その楽しさは偶然ではない。レイアウトは綿密に設計され、快楽は秩序に支えられている。彼の作品では、色が観客を招き入れ、構図が観客を奥へと導く——この二重の動きが、見る行為を心地よい体験と深い読解の両方にしている。

 色彩の明るさは、単なる派手さではなく、明度差や暖冷の配分が緻密に調整された「視線の導線」だ。目は高彩度の面で加速し、次の中間色で速度を落とし、余白で呼吸を取り戻す。こうして視線の動きが作曲される一方、水平・垂直・対角の比率、視点の高さ、壁や床の面の大きさなどが、画面の安定を裏から支える。人物や家具の間に置かれた空きは単なる空白ではなく、関係の距離と作品の呼吸を調整する装置として機能する。

 視点の扱いにも知性が光る。ホックニーは一点透視に安住せず、わずかな多視点やパースのゆらぎを織り込み、時間や身体の移動感を平面に折りたたむ。エッジ——色面どうしの境界——は時に硬く、時に柔らかく言い換えられ、空気の厚みやモチーフとの距離がそこに宿る。こうした微差の積み重ねが、初見の快活さの下に“読むべき層”を形成し、作品を長く見ても飽きさせない。

この楽しさと知性は、具体的なシリーズで鮮やかに結びつく。プールの作品ではターコイズの快楽が先に届き、続いてタイルの格子や影の角度が、光を幾何学として見る視座へと観客を誘う。

 結局のところ、ホックニーは「楽しい絵を描く人」ではない。楽しく見えるように知的に組み立てる人である。色の歓びを入口に、構図の論理を奥行きとして重ねることで、作品は鑑賞者の目と頭の両方を同時に働かせる。だからこそ彼のイメージは、派手さが引いたあとにも、考える愉しさを静かに残し続けるのだ。


ホックニーが教えてくれる「世界の見え方」

 ホックニーが一貫して示してきたのは、世界は「そこに在るもの」ではなく、こちらの側で編集し直せるものだという視点である。

 光は測定される数値ではなく、色面の関係として組み替えられる。時間は時計の針ではなく、歩行の速度や視点の小さな飛躍として折りたたまれる。関係は言葉で説明される以前に、椅子の角度や余白の配分、エッジの硬さと柔らかさの差異として、画面に沈められる。だから彼の絵は明るく、同時に思考を促す。快楽は構造に、直感は規律に支えられているからだ。

 技術に対しても彼は一貫して冷静だ。デジタル道具は目的ではなく、観察の速度と可逆性を更新する手段にすぎない。

 道具が変わっても、色面の秩序、視点の組織、余白の呼吸という絵画の骨格は変わらない。むしろ新しい筆は、同じ問題——「どうすれば光と時間を一枚の平面に置けるか」——を別のスケールで考えさせる。平面の研究は空間へ反転し、連作は差分の言語となり、私たちの“見る”は再び研ぎ澄まされる。

 この眼差しは、専門か否かを問わず私たちの日常に返ってくる。窓辺の影の輪郭、道のカーブ、二人の間に落ちる沈黙の距離——それらは「ただの風景」ではなく、編集可能な要素の集まりだ。影の方向を読む、視点のわずかなズレを見つける、境界の言い方を確かめる、色面の呼吸を感じる。そんな小さな作法を持てば、世界は少しずつ明るく、賢く、近しく見えはじめる。見ることは捕獲ではなく、組織である——ホックニーの作品は、その態度を軽やかに教えてくれる。

参考・関連サイト(外部リンク)

David Hockney 公式サイト

The David Hockney Foundation(年譜・作品画像・研究資料)

© rui

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