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なぜ、わざわざ描いたのか――マネ《草地の昼食》とプリート・パルン《Breakfast on the Grass》

  • 執筆者の写真: Rui Zhao
    Rui Zhao
  • 12 分前
  • 読了時間: 2分

 この二つの作品はよく並べて語られる。マネの《草地の昼食》。プリート・パルンの《Breakfast on the Grass》。どちらも有名で、どちらも「問題作」と呼ばれてきた。


本人撮影/オルセー美術館にて(2025年6月)
本人撮影/オルセー美術館にて(2025年6月)

 正直に言うと、最初に強く意識したのはマネではなく、パルンの方だった。このアニメーションがあったから、実物を見にオルセーへ行った。

 順番が逆だ。

 マネの絵は、よく「裸体がスキャンダルだった」と説明される。でも問題はそこではない。問題は、なぜこの場面をわざわざ描く必要があったのかという点だと思う。神話でもない。寓意でもない。教訓もない。説明の理由が、用意されていない。《草地の昼食》は、画面そのものが、少し居心地が悪い。人物同士の関係も、視線の向きも空間のつながりも、どこか噛み合わない。それでも画面は堂々と存在している。理由は示されない。

 プリート・パルンの《Breakfast on the Grass》には、最初から説明というものがない。

物語は始まらず、関係は整理されず、終わりも用意されていない。それでも、映像は止まらずに進む。「成立しなくても構わない」と言っているようだ。

 この二つを並べて見ると、共通しているのはここだと思う。①観客を納得させない②解釈の入口を用意しない③見る理由を保証しないそれでも、見ることから逃げられない。

メモ

 マネは、なぜ描くのかという問いを絵画の中に残した。

 パルンは、なぜ語るのかという問いをアニメーションの中に残した。私は、その問いに引き寄せられて、オルセーまで来た。たぶん、この二つは見るための作品ではなく、立ち止まらせるための作品なのだと思う。

© rui

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